Japanese Woman サドゥー

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実際に撮影させてもらった画像をみたら彼女の目はするどかった。顔にペイントしているので遠くからは見えなかったが彼女はかなり頑固な信念をもっているように思える。彼女の目は生き生きとしている。
インドのチェンナイの歩道に座っていた老女の乞食の目は死んでいたし、インドのコルカタのボロをまとった男は亡霊のようにさまよっていた。しかし日本の女サドゥーは汚れたマフラーや服をオシャレに着ていた。そして顔にメイクをし、服やマフラーに飾り物をつけていた。髪はまげに結い髪にも飾りをつけていた。近づいて見たらかなりの存在感があった。仕事現場から帰宅へと歩いて駅に向かっていた時ガード下にいた彼女の姿は私には見えなかった。彼女が私を見、私が誰かが私を見ていると気づいて目を見開くと彼女が見えたのだ。彼女は忍術を使っているのだろう。私にはかなりの術師に思えた。私は最初に見たときは男だと思っていた。しかしかなり体が小さかったので、障害者かなとも思った。そして私の体は彼女の姿を見てショックに襲われたのだ。私と目があって通り過ぎた時彼女の写真を撮りたいなと思った。インドのバナラシではサドゥーの写真をたくさん撮った。彼女をサドゥーと思ったのだ。写真を撮らしてくれるかどうか思案して次の週の木曜日彼女に近づいて写真を撮らしてくれないかと言うと、うなづいてくれた。その時女性だと気がついたのだ。「女の人?」と言うとうなづいた。そして写真を縦横2枚撮った。1000円札を1枚彼女に渡すとむしり取るように取っていった。私は満足した。しかしショックだった。彼女がガード下に存在していることがショックだったのだ。何故彼女が人間社会のすべてを捨ててあそこに存在しているのか?そのことがショックだったのだ。想像するしかないのだが彼女が何故路上生活者になったのか?何故顔にペイントしているのか?ペイントしているのは女性なので防御のためだろうか?。だが路上生活者になったいきさつは想像してもたしかなことはわからない。わかったからどうにかなるものでもない。
日本にもかなりの路上生活者はいるが、私が彼等の事をどのように想像し、彼等の存在をどのように解釈してもどうなるものでもない。しかし自分がいつなんどき彼等のようになるかもしれないということが頭をよぎる。はたして私は彼等のように路上生活ができるのだろうかと考えてしまう。
インドのサドゥーは宗教的路上生活者であるが、宗教的聖地巡礼放浪者なので社会から疎外されてはいない。むしろ尊敬されているくらいだろう。日本や他の国の路上生活者は無視され、疎外されているのはたしかだ。社会の外の人達だから。しかし私も社会からいつか疎外されるかもしれない事は否定できない。その時はすべてを捨てて路上生活者になるか、または自殺を決意するかしかないだろう。しかしなぜ我々は社会にしがみつくのだろう。彼女を見ていると社会にしがみつかなくても生きていけることが証明できている。彼女は自由だ。私がショックを受けたのは彼女が自由なのに私は不自由だからだ。完璧な自由を得るにはすべてを捨てればいいということだろう。と言う事は「人間は社会生活をいとまないと生きていけない」というのは一面の真実だと言う事なのだろうか?そうではない。人間社会はその社会からドロップアウトした人間をも囲い込むことが出来るという事だと思う。いや、人間は人間社会ができた時から彼等人間社会からはぐれたものを認めてきているのだ。なぜなら自分達も社会からドロップアウトする可能性があるからなのだ。