ユーチューブでドキュメンタリー『安楽死」を見た ~障害者施設19名刺殺者植松聖について考える~


ユーチューブで「安楽死」を見て泣いた。私はもともとなみだもろい。 不二の病におかされた女性がスイスで安楽死する動画だ。安楽死は自分の意思で 生死を決意する行為なのだが、死を決意する間もなく障害者が殺された相模原の 障害者施設での19名刺殺事件と対極にあるものの相通じる部分があるような気 がする。植松聖は重度の障害者は存在していても意味がないとして19名の重度 障害者を殺した。植松聖にとって重度障害者は人間ではない。だから19名を殺 しはしたが殺人ではないと思っているはずだ。そこで人間とはなにかという問題 がでてくる。安楽死した彼女は人工呼吸器をつけて生きるのは人間として生きて いるとはいえないとして死を選んだ。植松聖は重度の障害者を人間とみなさず刺 殺した。重度障害者は人間以外の動物でもない。他者の手をかりなければ生きて いけないガラクタとみているのだ。人間になりそこねたガラクタは抹殺しなけれ ばみんなが迷惑するしガラクタは見ていてうっとうしい。しかし植松聖がそう考 えても植松にガラクタを抹殺する権利があるはずはない。なぜ植松が自分が障害 者を抹殺しなければならないと思い込んだのか?それが問題だ。植松自身が自分 が超越者や神だと思い込んでやったわけではなさそうだ。そのことは日本の国会 の議長に「日本のために自分に障害者を抹殺する権利を認めてくれ」るように手 紙を書いたことでもわかることだ。しかし手紙は無視された。それでも決行して しまったのはなぜか?いわゆる承認欲求か?自分の存在を世間に認めてもらうた めの。おそらくそれしかないだろうな。植松は裁判の公判では障害者殺人につい てなんらかの持説を述べる事ができなかったではないか。ラスコール二コフのよ うに老婆を殺さなければならない理由や根拠を示す事ができなかったのだ。しか し植松のようになんらかの強い思い込みで19名の障害者を抹殺したような事件 は過去の日本の犯罪史上になかったことではないか?ということは今現在の新し い社会的状況の影響下で起きた事件なのだろう。いわゆる現代の若者達の被害者 意識とそれにともなう承認欲求だ。また死刑判決が下る事を希望する絶望の上で の自殺願望なのだろうなと思う。